2007年10月05日

風林火山の里 武田信虎甲斐統一へD

大泉寺今川との絆を深めた信虎は、一方で北条、諏訪とも和議を結ぶ。天文九年(1540年)には諏訪頼重の下に三女禰々を輿入れさせ、両家の結びつきを強めた。
天文十年(1542年)五月、信虎は諏訪頼重、村上義清との連合で小県郡に侵攻、海野平の合戦に挑み、海野一族を関東へと追いやる。東信濃への勢力拡大に成功した信虎は、甲斐へと堂々凱旋する。

事件は突然にやってくる。天文十年六月十四日、甲斐に戻った信虎は、今川義元夫妻、孫の五郎(後の氏真)に会おうと駿河に向かう。僅かの供だけを従えての旅であった。富士川筋を通り国境を越えた信虎に対して、突然に万沢口が絶たれる。嫡男晴信の命による追放劇。これ以後、信虎が生きて甲斐の国に帰る事は無かった。戦国大名武田信虎の終焉の時あったか・・・。

信虎は領内を統一、中央集権化を進め、甲斐武田を守護大名から戦国大名へ脱却させた。これは評価に値するものであろう。一方でその豪腕は多くの反発を生み、また家督の問題、今川義元の思惑など幾条もの流れが絡み合い、一条の流れとなっての追放劇であったように思われる。
その後の信虎は駿河で今川義元の庇護を受ける。桶狭間で義元討ち死に以後は京に赴き、将軍義輝や三条実綱等を頼ったようだ。天正元年(1573年)、武田信玄が病没すると信濃の伊那谷に入るが、甲斐国内に入る事は許されなかった。天正二年(1574年)三月五日、信濃高遠の禰津館で死去。享年八十一歳。死後は自ら創建した甲府の大泉寺に葬られる。漸くのの帰国であったであろう。
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2007年10月04日

風林火山の里 武田信虎甲斐統一へC

今川義元今川勢一万五千を二千足らずの寡兵で破った信虎は、その武威を戦国の世に示した。領内にあった反抗勢力も信虎の下に結束する事となる。しかしながら、その後は隣国の今川、北条、諏訪等との一進一退の抗争を繰り返し、暫し勢力拡大は停滞する。
天文四年(1535年)六月、今川氏輝が国境の万沢口に進出、八月十九日に合戦となる。同月二十二日、今川と姻戚関係を結んでいた北条氏綱勢二万四千が、籠坂峠を越えて郡内山中に侵攻する。郡内の小山田有信と信虎実弟の勝沼信友の兵二千余りが防備に当たるが敗退、勝沼信友をはじめ多くの兵が討ち取られる。この窮地に、かねてより同盟関係にあった武蔵の上杉朝興が小田原に向け進軍、北条勢は急遽兵を引き、信虎は救われる事となった。
天文五年(1536年)、今川氏輝が齢二十四歳にして急逝する。ほどなく今川家中に家督を巡って花倉の乱が起こり、信虎は梅岳承芳(後の今川義元)を支援する。梅岳承芳は太原雪斎の尽力もあり勝利、この事により武田と今川の関係は好転する。信虎は還俗した今川義元に長女定恵院を輿入れさせ、嫡男晴信には義元の仲立ちにより公家三条公頼の娘を室に迎えた。ここに武田、今川の同盟関係が成立する。

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2007年10月03日

風林火山の里 武田信虎甲斐統一へB

要害城跡信虎は永正十六年(1519年)十二月二十日、館を石和より相川扇状地に位置する躑躅ヶ崎館に移し、翌年にはその北東に詰城として要害城を築いた。周辺は城下町が整えられ、有力国人たちも強制的に移住させた。
大永元年(1521年)十月、今川氏親の家臣で遠江土方城主、福島正成が兵一万五千を率いて富士川沿いから甲斐に侵攻する。対する武田勢はわずか二千足らずであった。今川勢は十月十五日には躑躅ヶ崎館西方に迫り、信虎は身重の大井夫人を要害城に逃れさせる。十月十六日、飯田河原の合戦となり、信虎は寡兵なれど巧みな戦術で敵陣を打ち崩し、これを一時退ける。十一月三日戌の刻、要害城に避難していた大井夫人が男子を出産する。「御嫡男誕生!!」陣中にもたらされた報に武田勢は奮い立つ。十一月二十三日上条河原の合戦に挑んだ信虎は、少数精鋭の奇襲部隊を編成、大将福島正成の首級を挙げ、今川勢の撃退に成功した。この戦の最中生まれた男子、戦に勝った事から勝千代と命名される。太郎勝千代、後の武田晴信(信玄)の誕生である。
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2007年10月02日

風林火山の里 武田信虎甲斐統一へA

大井夫人家督を継いだ信虎、そこへ父と対立し和睦した叔父油川信恵が再び反旗を翻す。
この頃の甲斐は国中(甲府盆地一帯)を武田氏、郡内(南北北都留郡)に国人領主の小山田氏、河内(鰍沢以南富士川流域)が一門の穴山氏と、それぞれの勢力の支配下にあった。国中勝山城にあった油川信恵は国中の支持勢力と郡内の小山田平三等を後ろ楯に反乱を起こし、永正五年(1508年)坊峰合戦となる。同年十月四日、信虎は勝山城を夜襲、油川信恵父子他主立った将を討つ。小山田平三は相模の伊勢宗瑞(北条早雲)を頼り逃亡するも、二年後には和睦、以後武田の同盟となった。
永正十二年(1515年)、一門の大井信達が今川氏親と内通し叛く。十月十七日、信虎は大井信達の居城、上野城(椿城)を攻めた。窮した信達は今川氏親に救いを求め、甲斐国内に今川勢を呼び込む事になる。やがて永正十四年、小山田勢の活躍があり、今川勢を追い込む。今川方は和睦を申し入れ撤退する。信虎は大井信達の娘を室として迎え同盟を結んだ。この娘が武田晴信(信玄)の生母大井夫人である。


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2007年09月30日

風林火山の里 武田信虎甲斐統一へ@

武田信虎甲斐武田は八幡太郎義家の弟、新羅三郎義光を祖とする清和源氏の一族である。惣領は代々甲斐国守護職を務めた。
そんな甲斐でも戦国下克上の世には守護職を巡って度重なる内乱が起こる。
信虎の祖父、武田信昌が九歳で家督を継いだ折には、守護代の跡部影家が我が子に守護職を継がせようと新興国人領主と結び、信昌支持の譜代家臣等と対立する。内乱は十年ほど続いたが、寛正六年(1465年)、影家病没にて終結する。
明応元年(1492年)には信昌の子、信縄の家督相続を巡っての争いが起こる。これは父信昌が長男信縄を疎み、次男油川信恵を立てようとしたがために家臣団の対立を招き内乱となった。争いは4年間続いたが、東海地方を震源とした大地震を機に兄弟は和議を結び終結する。
このような中、永正四年(1507年)信縄病没(享年三十六歳)、嫡子信虎が齢十四歳にして甲斐武田十七代当主となる。嵐の船出であった。


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2007年09月27日

風林火山の里 躑躅ヶ崎館

武田神社「人は城、人は石垣、人は堀。情けは味方、仇は敵なり。」人こそを要とした“風林火山”武田晴信(信玄)は生涯居城を築かず、躑躅ヶ崎館を居館とした。館跡は山梨県甲府市古府中町にあり、現在は武田神社となっている。永正十六年に武田信虎が川田から居館移し、天正九年に武田勝頼の新府城(韮崎市)移転に至るまで、武田三代、六十二年の間本拠となった。

現在の参堂は南側であるが、発掘調査で武田氏築城の城郭の特徴たる三日月堀(門前の半月形状の堀)を備えた戦国時代の大手門跡が神社境内の東側より発見されている。これは江戸時代に描かれた絵図に見られるものである。
館跡、神社の本殿二町四方が主郭。ここには行事や公務を行う御主殿や日常生活の場たる常の間など、足利将軍邸の花の御所を模した建物が立ち並んでいたと見られ、泉水の跡など、隣接した庭園の存在などが窺われる。このあたり武田家の強い京への志向が見てとられ、この館を政治的権威の象徴としていたのであろう。
主郭西、西曲輪は天文二十一年から翌年にかけ晴信の嫡男義信の婚儀に際し増設したとされ、義信夫妻の屋敷があったといわれる。現在は旧睦沢学校の校舎、藤村記念館がある。一方主郭北には晴信の生母大井夫人の暮らした御隠居曲輪、その西に無明曲輪、味噌曲輪と続く。現在は遊歩道を備え、各曲輪跡を巡る事ができる。
以上が武田期の躑躅ヶ崎館の範囲と考えられるが、豊臣期に政庁として再使用され拡張を受けている。主郭は中曲輪と東曲輪に分けられ、中曲輪のは天守台が設けられた。また、西曲輪南に梅翁曲輪が配され、大手口東に総堀が設けられたようだ。

これからも折を見て風林火山の里を旅してみたい・・・この分野、好きじゃからのぉ!!(^▽^)map.gif




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