天文十年(1542年)五月、信虎は諏訪頼重、村上義清との連合で小県郡に侵攻、海野平の合戦に挑み、海野一族を関東へと追いやる。東信濃への勢力拡大に成功した信虎は、甲斐へと堂々凱旋する。
事件は突然にやってくる。天文十年六月十四日、甲斐に戻った信虎は、今川義元夫妻、孫の五郎(後の氏真)に会おうと駿河に向かう。僅かの供だけを従えての旅であった。富士川筋を通り国境を越えた信虎に対して、突然に万沢口が絶たれる。嫡男晴信の命による追放劇。これ以後、信虎が生きて甲斐の国に帰る事は無かった。戦国大名武田信虎の終焉の時あったか・・・。
信虎は領内を統一、中央集権化を進め、甲斐武田を守護大名から戦国大名へ脱却させた。これは評価に値するものであろう。一方でその豪腕は多くの反発を生み、また家督の問題、今川義元の思惑など幾条もの流れが絡み合い、一条の流れとなっての追放劇であったように思われる。
その後の信虎は駿河で今川義元の庇護を受ける。桶狭間で義元討ち死に以後は京に赴き、将軍義輝や三条実綱等を頼ったようだ。天正元年(1573年)、武田信玄が病没すると信濃の伊那谷に入るが、甲斐国内に入る事は許されなかった。天正二年(1574年)三月五日、信濃高遠の禰津館で死去。享年八十一歳。死後は自ら創建した甲府の大泉寺に葬られる。漸くのの帰国であったであろう。



今川勢一万五千を二千足らずの寡兵で破った信虎は、その武威を戦国の世に示した。領内にあった反抗勢力も信虎の下に結束する事となる。しかしながら、その後は隣国の今川、北条、諏訪等との一進一退の抗争を繰り返し、暫し勢力拡大は停滞する。