
「人は城、人は
石垣、人は堀。情けは味方、仇は敵なり。」人こそを要とした“
風林火山”武田晴信(信玄)は生涯居城を築かず、躑躅ヶ崎館を居館とした。館跡は
山梨県甲府市古府中町にあり、現在は武田神社となっている。永正十六年に武田信虎が川田から居館移し、天正九年に武田勝頼の新府城(韮崎市)移転に至るまで、武田三代、六十二年の間本拠となった。
現在の参堂は南側であるが、発掘調査で武田氏築城の城郭の特徴たる三日月堀(門前の半月形状の堀)を備えた戦国時代の大手門跡が神社境内の東側より発見されている。これは江戸時代に描かれた絵図に見られるものである。
館跡、神社の本殿二町四方が主郭。ここには行事や公務を行う御主殿や日常生活の場たる常の間など、足利将軍邸の花の御所を模した建物が立ち並んでいたと見られ、泉水の跡など、隣接した庭園の存在などが窺われる。このあたり武田家の強い京への志向が見てとられ、この館を政治的権威の象徴としていたのであろう。
主郭西、西曲輪は天文二十一年から翌年にかけ晴信の嫡男義信の婚儀に際し
増設したとされ、義信夫妻の屋敷があったといわれる。現在は旧睦沢学校の校舎、藤村記念館がある。一方主郭北には晴信の生母
大井夫人の暮らした御隠居曲輪、その西に無明曲輪、味噌曲輪と続く。現在は遊歩道を備え、各曲輪跡を巡る事ができる。
以上が武田期の躑躅ヶ崎館の範囲と考えられるが、豊臣期に政庁として再使用され拡張を受けている。主郭は中曲輪と東曲輪に分けられ、中曲輪のは天守台が設けられた。また、西曲輪南に梅翁曲輪が配され、大手口東に総堀が設けられたようだ。
これからも折を見て風林火山の里を旅してみたい・・・この分野、
好きじゃからのぉ!!(^▽^)
posted by 神之峰 風斎 at 00:04|
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